コラム

※このページの印刷は、ご遠慮下さい。

マネキンのリアリティを考える 戦後日本のマネキンの流れを通して

高度経済成長期のマネキン

ジャン・ピエール・ダルナとマネキンの強化プラスチック化

図版
(図版2)

日本型マネキンスタイルを大きく変える出来事が、1958年(昭和33年)七彩から起った。それは、パリ在住のマネキン作家、ジャン・ピェール・ダルナを日本に招聘しマネキンの制作を依頼したことであった。そして1959年(昭和34年)、3ポーズの世界初の強化プラスチック製マネキンが発表されたのである。ダルナマネキンは、ファッションの都パリの香りが色濃く漂う、ダイナミックさとエレガントさを身体造形に表した、それまでのマネキンの概念を大きく塗り替えるものであり、海外のマネキンを目の当たりにすることがなかった日本人に、強い衝撃を与えた。因みにダルナマネキンのウエストは47センチでカツラを装着していた。ダルナは、1996年まで日本市場のためにマネキンを作り続け、多くの根強いファンを生み出した。(図版2)

1960年代前半のリアルマネキンの特徴

図版
(図版3)

1960年代に入り、日本のマネキンの素材はすべて強化プラスチック製に移行した。マネキンのイメージは、その時代の日本女性が、欧米人に対して抱く、理想の身体を表した。具体的には、当時の日本女性の平均より10センチ程度高い身長。長くスラリとした脚。なで肩で、適度に肉感的で50センチ程度の括れたウエストにより、女性らしさとセクシーさを漂わせる体。顔は小さく八頭身。ポーズはファッションモデルの優雅な「見せポース」を基本とし、その特徴は手の指のしぐさに表された。一言で述べるなら、「洋装が似合うスマートな身体」であった。一方顔は、極端に眼と口が大きく、キュートで親しみを感じさせるファニーフェイスが特徴であった。太めの合成繊維で形作られたカツラを装着し、眼球はプラスチック製の義眼が装着され長い睫がつけられた。(図版3)こうした理想化された身体イメージが与えられたマネキンが着た服が、当時の日本女性の憧れの対象となったのである。百貨店のイージーオーター売場には、大量のリアルタイプのマネキンが林立し、まさに黄金時代を彷彿とさせる光景が生まれた。

ここでマネキンの身体造形のタイプについて述べておきたい。マネキンは身体をリアルに形作ったものと抽象化したものの二つのタイプに大別される。もともとマネキンが十九世紀後半のパリに登場した時、リアルであることが人をひき付ける要因と考えられた。その後20世紀の初頭に、アーチストがマネキン作りに関与するようになると、新しい芸術表現の影響が現れ、抽象表現によるマネキンの登場となった。以来、マネキンはリアルと抽象が並存するようになり、この図式は現在も変わっていない。ただ、マネキンの本質であるリアリティについては、後で述べることにしたい。

さて話を1960年代当時に戻そう。この時代は、文字通りリアルマネキン主流の時代であった。ここで興味深いことは、1950年代以前と以降を比較して見ると、日本型美人から、国籍不明型美人へと大きく変化したことである。この要因は、洋装化が定着した時代背景の下で、ジャン・ピェール・ダルナのマネキンのイメージと、欧米のファッションイメージや流行現象、映画女優の魅惑的な美しさ等を意識した点にあった。ただ共通して言えることは、身体を忠実に写し取るリアリティではなく、あくまでも作家の創作性に依拠したリアル表現にあったと考える。

一方、マネキンの素材が強化プラスチックになったことにより、量的な重要に対応した生産体制がとられ、販売システムもレンタルが基本となり、1960年代初頭、マネキンは大衆消費社会の脇役的存在となった。そうした中で最も大量にマネキンが使われていた百貨店の婦人服売場に、既製服時代の到来を予感させる、海外ブランドの既製服(プレタ・ポルテ)を販売するコーナーが出現し始めた。

標準サイズの既製服を着こなすマネキン

1960年代後半、日本のアパレル産業の急成長時代を迎えた。それは、工業生産による既製服が大量に供給される時代の到来であった。買ってすぐ着られる既製服を販売するスペースが、百貨店を中心に大きく拡充され、イージーオーダー売場に林立していたマネキンは、あっという間に退けられた。オーダーメード華やかな成りし頃は、「吊るしの服」と言われ、低く見られていた既製服だが、規格サイズ別にハンガーラックに吊るして販売する量販型売場に転換したのである。

その結果、マネキン会社の倉庫には、レンタル契約が終わり、お払い箱になった1960年代のマネキンが大量に山積みされた。「もはやマネキンの時代は終わった」と業界内で囁かれるようになり、販売用什器主体に切り替えるマネキン会社が相次いだ。マネキン作家たちは、劇的に変化する時代への対応を追られたのである。

サンプルを見せるマネキンは、標準サイズの既製服にフィットすることが条件とされ、新しい時代の既製服を、よリファッショナブルに着こなせる、身体形状とサイズが求められるようになった。それまでは、作家自身の美意識で作ることが、ある程度許されたマネキンだったが、標準サイズの既製服の寸法を前提にマネキンの身体形状を理想化することが前提となった。

人間のリアリティを意識

図版
(図版4)

日本女性の身体への意識が顕著に現れ、一代ブームを巻き起こしたのは、ミニスカートのキャンペーンのモデルとして、 1967年(昭和42年)来日したツィギーの「小枝のように細い身体」の影響であった。それまで骨格はリアルに表現されなかったマネキンだったが、この時を契機に、膝小僧はもとより腰骨や鎖骨、肩甲骨に至るまでリアルに造形されるようになった。つまり、創作人形風であったマネキンが、現実の人間に一歩近づいたのである。1968年に七彩が発表したツィギータイプのマネキンを作る時、モデルの振る舞いのストップモーションを4方向から同時にカメラで撮影した写真を参考にしながら、マネキンの原型が作られた。これは明らかに現実の人間のリアリティを意識したものであった。骨格はもとよりウエストも、実際の人間にやや近い寸法に設定された。しかし、顔は眼が異常に大きい、中原淳一が描く少女を彷彿とさせる、キャラクター人形風であった。このマネキンは、1970年代前半のヤングカジュアルファッションを見事に着こなし、大ヒットとなった。(図版4)

1970年代前半は、雑誌「アンアン」や「ノンノ」の創刊や、「三愛」「鈴屋」に代表される戦後生まれの若い世代をターゲットにした店が発信するファッションが花開いた。そうした中で、1973年(昭和48年)第一次オイルショックが起こり、ネオンサインやショーウインドの照明が消される等の社会現象が相次いで起こり、長く続いてきた高度経済成長期も終焉の時を迎えた。この時、マネキンを全国の売場から全廃させる大手百貨店が現れた。まさにマネキンにとって厳しい冬の時代の到来であった。この時期七彩は、来るべき新しい時代に備え、画期的なマネキンを開発する技術開発に着手していた。

著者: 京都造形芸術大学 ものづくり総合研究センター 主任研究員 藤井秀雪
※この文章は日本人形玩具学会「人形玩具研究 かたち・あそび」第18号 2008 年3月に発表したものの転載です。
図版:株式会社七彩協力・無断転載禁