マネキンの全て

※このページの印刷は、ご遠慮下さい。

マネキンのすべて

マネキンの数奇なる歴史

戦後マネキン業界の復興と発展

わが国のマネキンを生み出し成立させた二つの流れ

これまで紐解いてきたマネキンの流れは、我が国のマネキン業界の源流にほかなりません。大きく分けるとこの流れは、一つは島津マネキンによる洋装マネキンの流れであり、これはヨーロッパに端を発します。もう一つは関東の「永徳斎」、西日本の「京屋人形店」に代表される和装マネキンの流れであり、こちらは「京人形」や「生き人形」という日本独自の人形文化にその源流を見ることができます。

前者は彫刻家や画家が関わり、後者は人形師や甲冑師が関わりました。興味深いことは、ヨーロッパの影響を強く受けた島津マネキンでも、その製法は「京人形」や「生き人形」「人体模型製作技術」の応用であったことです。これは日本のマネキンの独自性を裏付けています。

また「見世物」から「博覧会」へ、さらには百貨店のウインドーに活路を見い出した「生き人形」が、マネキンへと転化していく過程に、我が国においてマネキンが身近な対象として受け入れられてきた根拠があります。

戦後、洋風文化の急速な普及と商業の進展にともなって、マネキンが広く普及し、世界的にも高いレベルに到達するに至った発展の基礎は、すでに戦前において形成されていたことを、極めて不十分な資料の中からさえ、伺い知ることが出来ます。

戦争で一旦休止を余儀なくされた日本のマネキン業界でしたが、戦後それぞれの企業がどのような経過で再生し、産声をあげてきたか。その成立の過程を、提出された資料をもとに解き明かしてみることにします。

戦後日本のマネキン史  
1946年(昭和21年) 七彩工芸・創業、アイレス人形を創作
吉忠:旧島津マネキンの在庫品を引取り、販売を開始
マネキンの生産を決意し、原型制作に着手
1947年(昭和22年) 七彩:第1号マネキン完成
吉忠:第1回展示会開儀。マネキン製造課とマネキン課(営業部)設置
大和製作所:設立(現・ヤマトマネキン)
嵯峨マネキン(旧・東亜マネキン):名古屋で操業再開
1948年(昭和23年) 七彩:第1回マネキン新作発表会開催
吉忠:戦後初のマネキン輸出(シンガポール向け)
永徳斎マネキン:東京(亀戸)で再開
1949年(昭和24年) ヤマト:三越本店でマネキン新作発表会開催
京屋人形店:堀正夫(平馬の長男)山口で再開
京屋人形店:堀丘馬、山口で再開
東京マネキン:小山市(栃木県)でマネキン製作準備開始
平和マネキン:末次政一郎が別府で創業
七彩:第1回マネキン供養祭開催(昭和32年まで、9年間毎年開催)
1950年(昭和25年) 京屋人形店:洋マネキンに着手
1951年(昭和26年) 貸しマネキン時代の幕開け、黄金時代の到来
吉忠:マネキン業としての特異な業務増加。技術者や専門販売員を養成
ヤマト:原型および技術陣を充実
七彩:テラコッタマネキンを発表。工芸品、陶器、プリント生地等も。
1952年(昭和27年) 七彩:ビニクロンゲルマネキンを開発
吉忠、ヤマト、七彩により「マネキン企業3社会」結成
(技術の向上、価格の安定、盗難防止、従業員の親睦が目的)
1953年(昭和28年) 吉忠:塩化ビニールマネキンを開発
モードセンター:設立
千葉洋行:設立
1954年(昭和29年) 千歳工芸(高岡徳太郎を中心に二科会の画家・彫刻家によって設立)が、ノバマネキンに
1955年(昭和30年) 京屋:第1回新作展示発表会開催
1957年(昭和32年) 七彩、ヤマト:FRPの研究に成果
採光マネキンが彩美マネキンに社名変更、洋マネキンに着手
1958年(昭和33年) 吉忠:FRPの研究に着手
七彩:ジャン・ピェール・ダルナをフランスより招聘
1959年(昭和34年) 七彩:「火の芸術展」開催
七彩:日本初のFRP製「ダルナ」マネキン発表
ノバマネキン:高島屋のテーマキャラクター“ローズちゃん”第1号納入
1960年(昭和35年) 吉忠:全面的にFRPに移行
業界全体のFRP化が進行(昭和30年代に完了)
イージーオーダー売場全盛
1962年(昭和37年) ローザ工芸:川口市(埼玉県)に設立
ニシモト:名古屋に創業
1964年(昭和39年) ロア:東京に創業
1966年(昭和41年) 七彩:立体裁断用ボディ「フェアレディ」開発
マネキン業界は、什器開発に重点が移行
1968年(昭和43年) 日本マネキンディスプレイ協会(任意団体)結成
1969年(昭和44年) 京屋:透明マネキン開発(特許申請)
1971年(昭和46年) 七彩:FCR技法によるスーパーリアルマネキン発表
ノバマネキン:ニvューヨーク「NADIショー」に出展
1972年(昭和47年) 法人団体・日本マネキンディスプレイ商工組合が通産大臣より認可(略称=JAMDA)
1973年(昭和48年) 吉忠:アデルと契約、翌年発表(1992年・買収)
以後、各社で海外マネキン企業との提携が拡がる
1975年(昭和50年) 西武百貨店がライフスタイル対応の売場展開
「現代衣裳の源流展」京都で開催。七彩がマネキン制作(ニューヨーク・メトロポリタン美術館に永久展示)
1976年(昭和51年) 伊勢丹がリモデル(アメリカのストアープランのノウハウを導入)
以後、百貨店のリモデルが全国的に波及。ビジュアル・プレゼンテーション(VP)における、マネキンの位置付けが明確化される。
1981年(昭和56年) 京屋:業界初の「ユーロショップ」出展
1983年(昭和58年) 七彩:「イッセイ・ミヤケ スペクタクル・ボディワークス」のための人体ボディ制作。
以後、ファッションデザイナーとの共同開発による、オリジナルマネキンの開発が進展
旧島津マネキンの流れを受けた京都のマネキン三社の復興


ファイバーマネキンの製造風景。(1950年代、七彩工芸の工場)


右:第1回「マネキン供養祭」記事(1949年七彩工芸・主催)
左:大和製作所標本部のカタログ

敗戦後の荒廃した社会にあって、人々に夢をもたらすモードとマネキンの再生が、事のほか早かったことにまず驚かされます。とりわけ旧「島津マネキン」関係者による活動のいち早い再開は、その後の日本におけるマネキン業界の発展に、大きな影響をもたらしました。まず、その流れを受けて誕生した、京都のマネキン企業「七彩」「ヤマト」「吉忠」の三社について、その経過を追ってみましょう。

旧「島津マネキン」でマネキン制作と関わってきた向井良吉は、出征に際して社長の島津良蔵に「必ず生きて帰り、再びマネキン創作活動を復活させる」との約束を交わしていました。向井良吉はラバウル戦線より九死に一生を得て奇蹟的に帰還すると、まっ先に島津良蔵のもとを訪れ、マネキン事業再興について話し合いました。

幾多の協議を重ねた結果、1946年(昭和21年)7月6日、趣意書を完成させました。旧「島津マネキン」の商号使用と島津製作所への協力依頼は、アメリカ駐留軍下という事情もあって断念せざるを得なくなり、7月12日に新社名を向井潤吉画伯案の「七彩工芸」に決定、7月21日に「(有)七彩工芸」を設立しました。代表取締役・向井良吉、取締役に島津良蔵が就任しました。

さらに同年10月には、島津マネキン時代のマネキン作家・村井次郎が入社し、取締役に就任。マネキン制作の準備に着手しました。1947年(昭和22年)8月、向井良吉の第一号と村井次郎の第二号マネキンを発表。1950年(昭和25年)10月に「(株)七彩工芸」となりました。

「吉忠(株)」では、終戦後に繊維製品の販売が自由になるまでの間、装飾品、人形玩具、金銀糸製品、袋物などの販売を行っていました。当時、伊藤営業部長は旧「島津マネキン」の吉村勲、佐々木良三らと友人関係であったこともあって、マネキン事業がなにかと話題に上っていました。1946年(昭和21年)8月頃、姫路と神戸の得意先よりマネキンの入手を要望されました。

旧「島津マネキン」の在庫品調査の結果、綾野仁与三氏と塩川正十郎氏が所有していることが判明。島津製作所からはマネキン事業を再開しないとの回答があったため、両氏に販売権の委譲を申し入れ、受け入れられたので在庫品を引き取って、販売を開始しました。「吉忠マネキン」の記録によると、当時の洋装婦人・紳士全身マネキンの販売価格は一体1200円で、在庫数は204体でした。ほかに和装マネキンが252体、子供マネキン480体を保有していたとのことです。

破損したマネキンの修理は、旧「島津マネキン」の協力業者であった藤林重高(後に大和製作所を創立)に依頼しました。この月、「吉忠(株)」は大阪朝日新聞と日本経済新聞の全国版に広告を掲載し、マネキンの宣伝を行いました。そしてこの年の9月、マネキンの生産を決意して、京都工房の吉村勲、佐々木良三の両人に、洋裁用仮縫いボディのデザインを依頼。原型は藤林工場が製作しました。

11月には作業場を作り、マネキン原型制作を吉村勲、佐々木良三の両人に加え、旧「島津マネキン」の村井次郎に依頼。翌1947年(昭和22年)2月には最初の原型が完成し、4月には第一回の展示会を京都の本社で開催しました。展示会は名古屋、東京、福岡で相次いで開催され、計600余名の来場者を迎え、三カ月間で婦人マネキン239体など計180万円の受注を獲得。大きな成果をあげました(ちなみに婦人全身マネキンの販売価格は、一体5500円でした)。

これらの受注を藤林工場のみで生産するには一年以上を要するため、「吉忠」では自家工場建設を決定し、マネキン製造課と営業部の中にマネキン課を設け、東郷青児画伯を顧問に迎え入れました。その後1950年(昭和25年)10月に現在の「吉忠マネキン(株)」となりました。

最も早くスタートした「七彩」は、1946年(昭和21年)9月に愛玩用人形「アイレス人形」を創作し、大建産業(株)(現・伊藤忠商事(株))に一体180円で納入しました。10月には12坪の新社屋を完成し操業を開始。1947年(昭和22年)3月に古材による18坪のアトリエが完成。同年5月には旧「島津マネキン」時代に技術部門を担当していた門井嘉衛が参加。8月には完成した第一号、第二号マネキンを一体9800円で売却しました。

「七彩工芸」は創業開始とともに京阪神の百貨店、専門店をはじめ旧「島津マネキン」の取引元であった各商社に、マネキンの再興を呼びかけました。商社はこれに呼応し、相次いで受注に結びつくという幸先のよいスタートをきりました。

1948年(昭和23年)3月には、京都の三上漆器店を会場に、第一回マネキン新作発表会を開催しました。コスチュームは田中千代などの服飾関係者によって創作されました。1949年(昭和24年)に開催された第三回マネキン新作発表会は、服飾デザイナーに加えて、宮本三郎、猪熊弦一郎といった有名画家が衣裳制作に参加し、大きな注目を集めました。

京都の夏の風物詩となったマネキン供養祭が始まったのも、1949年(昭和24年)でした。供養祭は、戦後の荒廃した世の中にあって、物に対する感謝の念と人間性を呼び戻すことを意図して、マネキンが合成樹脂になるまでの九年間、毎年開催されました。当初は社内の空地での開催でしたが、後には比叡山の蛇ケ池で大々的に行われました。

一方、藤林重高は1946年(昭和21年)10月より旧島津のマネキン修理や仮縫いボディに取り組んでいましたが、1947年(昭和22年)5月にマネキンと人体解剖模型や教育用標本模型類の製造販売に着手。11月に「(有)大和製作所」を設立しました。

「大和製作所」の特徴は、設立と同時にマネキン部と標本部の二部制を採用したことでした。標本は藤林重高の父・鑛次郎以来の家業であり、「島津製作所標本部」の協力業者という実績がありました。 「大和製作所標本部」は、廃部になった1968年(昭和43年)まで、人体模型、各器官の模型、害虫益虫、古代の土器、古墳模型、地学関係模型等、多彩に取り組みました。

1948年(昭和23年)に三越本店で開催された教育用品展に、人体模型を出品しました。翌年には同じ三越本店でマネキンの新作発表展示会を7日間にわたって開催しましたが、当時はマネキンより洋服のデザインに人気が集まり、売上げは思わしくなかったと関係者は回想しています。この年、業界に先駆けてディスプレイ器具を開発しました。そして翌年の1949年(昭和24年)10月「(株)大和製作所」を改組設立しました。

戦後初のマネキンの輸出を行ったのは「吉忠」でした。昭和23年5月、婦人マネキン14体、紳士胸像等30体が、シンガポールに向けて積み出されました。

また「七彩工芸」でも翌年の2月に、インドのニューデリー商工会議所会頭・ラジバール氏が来訪し、マネキン200体、総額350万円の商談が成立。インド向け輸出の継続に関する話し合いも行われました。

全国に波及する復興の波 〜貸しマネキンの時代へ移行〜


松橋マネキンの秀作(和装マネキン)


京屋の秀作マネキン(和装マネキン:獅子/1971年)


京屋の秀作マネキン(和装マネキン:深雪/1972年)


京屋の秀作マネキン(和装マネキン:めばえ/1973年)

これまで旧「島津マネキン」の流れを受けて戦後復興した京都のマネキン三社の経過をたどってきましたが、京都ではこのほかに1928年(昭和3年)創業の「松橋人形店」の松橋新七によって、「松橋マネキン」が1948年(昭和23年)に再興しました。

他の地域ではどうだったのか、詳細な資料がありませんので具体的にその経過を述べることができませんが、入手できた資料をもとに、可能なかぎり紐解いてみましょう。

1947年(昭和22年)に、戦前の「東亜マネキン」が「嵯峨マネキン」と社名を改めて、名古屋で再開しました。

1949年(昭和24年)になると、「京屋人形店」「平和マネキン」「東京マネキン」等が、次々とマネキン事業を再開しています。

1945年(昭和20年)10月に堀平馬の三男・量夫が除隊、1946年(昭和21年)1月には長男・正夫も中国大陸より無事帰還し、戦前の「京屋人形店」の一族は山口で家業の林業に励んでいましたが、正夫は新しい事業に取り組みたいと模索していた1949年(昭和24年)1月、博多(福岡市)で戦前の得意先の人と再会し、マネキン事業再開への強い要請を受け、父・平馬の意志を継ぐ決意を固めました。そして同月に山口で「京屋人形店」を再開しました。

仕入れ・販売は堀兄弟で、マネキンの修理や製作の技術全般は別府在住の末次政一郎の応援を受けました。1949年(昭和24年)には戦前の再興に燃えて商都・博多に進出。兄弟は持ち前の鋭い勘とたくましい開拓精神、逆境に耐えぬくバイタリティで、強固な意志と情熱を発揮して困難に立ち向かったと、「京屋50年史」に記されています。努力と誠実さが認められて、さっそく玉屋、岩田屋から大量の注文を受けることができました。市内の納品は徒歩と、一台の古自転車とリヤカーでの往復運搬でした。

五年後の1954年(昭和29年)4月に「(有)京屋人形店」を設立。1959年(昭和34年)4月に株式会社に改組し、堀正夫が代表取締役社長に就任します。その後、1962年(昭和37年)に「(株)京屋」に社名変更し、1977年(昭和52年)には「ポワール京屋」と呼称変更をしますが、1982年(昭和57年)再び「(株)京屋」に統一しました。

一方、堀平馬の弟・兵馬は、1949年(昭和24年)2月に山口市湯田町で「京屋人形店」を再開し、同年11月に平馬との合意により、福岡市に進出して合流しました。 1950年(昭和25年)になると、和装マネキンに加えて洋装マネキンに着手します。その際「七彩工芸」との間に業界情報や技術の交流があったと、「京屋50年史」に記録されています。

兵馬は1950年(昭和25年)10月、かねてからの念願であった広島への進出を実現し、工場を建設。中国地方の販路を四国まで拡大します。1952年 (昭和27年)3月には福屋百貨店と共催で「和洋マネキン新作発表会」を開催。1956年(昭和31年)4月に「(株)京屋人形店」を設立し、堀兵馬は社長に就任します。そして1971年(昭和46年)社名を「(株)京屋」に変更します。

「東京マネキン」は、1949年(昭和24年)後半に栃木県小山市駅前の借家でマネキン製作の準備を開始しました。原型は松戸市在住の山形房二が制作。岩井亀之助は型取りから仕上げを、ラッカー塗装とメーキャップは戦前に人形の担当をしていた遠藤という人物が受け持ち、スタートの体制が整いました。そして1951年(昭和26年)には東京(日本橋室町)の永徳斎に近い場所に、10坪の展示場兼事務所を新設し、兼原マネキンや玉俊工業所にマネキンを卸しはじめました。

当時は横山町などの衣料問屋が得意先で、短期展示会の仕事に活発に取り組みました。1953年(昭和28年)になると、日本橋室町の店が手狭となり、小伝馬町にショーウインドーと荷造り発送所付きの店舗を構えました。この年の10月、開店以来最高の売上げである350万円を記録し、生産が間に合わない状態にまでなりました。

「東京マネキン」がマネキン製作を再開した1949年(昭和24年)、「京屋人形店」のマネキン修理を行っていた末次政一郎は、別府に「平和マネキン」を創業しました。会社概要によると、1951年(昭和26年)には別府に工場を建設し、その後は岡山、松山、宇部、姫路に営業所を開設。1968年(昭和43年)1月に株式会社に改組し、大阪に支店、名古屋、静岡、佐賀、北九州に営業所を開設しています。この年「マネキン研究所」を東京に設けました。

再び、その後の京都三社(「吉忠」「七彩工芸」「大和製作所」)の動向を見てみましょう。

1950(昭和25年)6月、朝鮮戦争の勃発により国内は特需景気に湧き、衣料切符制度の廃止など、戦後の物資統制に終止符が打たれました。日本経済の復興と消費の活性化にともなって、百貨店をはじめ小売業は急速な伸長を遂げます。

こうした状況下の1951年(昭和26年)に、貸しマネキンの時代が幕を開きました。そして京都のマネキン三社にとって黄金時代が到来します。「吉忠」では貸しマネキンの増加にともないマネキン業としての特異な業務が増加し、若い技術者や専門の販売員養成に着手しました。

「大和製作所」で原型および技術陣の充実が計られたのも、この年でした。藤林重治、石田史朗の両人に加え、入江信四郎、流政之、桑田通夫の三人が参加。翌年には堀内正和、橋本惣介も加わりました。また旧「島津マネキン」で彩色を担当していた河野薫郎、河野文雄の両人が加わったのも、この年でした。

一方「七彩工芸」からは、1951年(昭和26年)に走泥社の八木一夫と鈴木治の両人創作によるテラコッタマネキンが発表されました。この年の展示会は、マネキンのみならず工芸品、陶器、プリント生地、ろうけつ染なども、多彩に商品化されました。

こうして時代の波に乗った「七彩」「ヤマト」「吉忠」の三社は、1952年(昭和27年)3月に「マネキン企業三社会」を結成します。この会は相互扶助による各社の技術向上、業界価格の安定、盗作防止対策の推進、従業員の親睦を計ることによって、マネキン業界の安定と造型美術業のモラル向上に寄与することを目的としていました。親睦としては三社対抗野球大会等が行われました。

この「マネキン企業三社会」が、当商工組合結成のきっかけとなりました。

ファイバーに代る新素材の開発 〜イージーオーダーへの対応〜


七彩のアトリエで制作中のジャン・ピェール・ダルナ(1958年)

戦前、戦後を通じて、我が国のマネキンはファイバー製でしたが、需要に対して供給が追いつかない状況を迎えました。より高い生産性が期待できるうえに、軽くて強く、修理可能な素材の開発が急務となりました。

「七彩工芸」では1950年代に入って、門井嘉衛を中心に楮製紙に代わる樹脂製マネキンの開発が進められていました。1952年(昭和27年)11月、三井化学工業(株)提供によるビニクロン・ゲルのマネキンへの応用に成功し、1953年(昭和28年)秋の新作展で製品化して発表しました。

一方、前年に社名を「吉忠マネキン」とした「吉忠」も、新素材の研究を進め、塩化ビニール製マネキンの試作を、同じ年の7月の新作展で発表しました。

ところが、「七彩工芸」のビニクロン・ゲル製マネキンは、好評発表後に、ウインドーの熱に長時間照射していると、化学反応を起こすことが判明。「吉忠マネキン」の塩化ビニール製マネキンも、見た目は柔らかく、しかも丈夫でしたが、重さが楮製紙マネキンの約2.5倍であることと、仕上がり状態の美しさが楮製紙製に劣ること、非常に汚れやすい等の欠点が露呈し、発表を停止しました。結局「七彩工芸」も「吉忠マネキン」も、楮製紙に代わる樹脂の応用は、努力のかいもなく(この段階では)不成功に終わりました。

以降、「七彩工芸」ではビニクロン・ゲルに代わる新素材として“FRP”の研究を、門井嘉衛を中心に継続させました。そして1957年(昭和32年)に、性能、成型加工方式、価格等に関して成功の確信を得て、翌年パリよりマネキン作家ジャン・ピェール・ダルナを招き、FRPによるマネキン制作を依頼。1959年(昭和34年)に、FRP製マネキンを発表しました。

軽くて強く、熱による変形もなく、修理が可能で、着色も自由にでき、生産性が高く、ローコストという画期的な素材による、パリの香り漂うダルナマネキンの登場は、センセーショナルな反響を呼び起こしました。

1957年(昭和32年)に「大和製作所」も日本触媒との共同研究の成果が実り、マネキンのFRP化を図りました。

「吉忠マネキン」では、1958年(昭和33年)3月から京都工業研究所で新素材の研究開発を進め、翌年6月にFRP製の試作品を発表。1960年(昭和35年)3月を期して、全面的にFRP製への移行が計られました。

また「京屋人形店」の広島では、1958年(昭和33年)に研究に着手し、1962年(昭和37年)12月にFRPに切り替えました。一方、福岡は1959年(昭和34年)に着手し、翌年5月にFRP製マネキン第一号を発表しますが、ショーウインドーの熱で変化するなどのアクシデントに遭遇しました。

以上のような試行錯誤の末、数年の間にマネキンのFRP化は完成し、FRP製マネキンは一気に業界全体に浸透しました。こうして我が国のマネキンのFRP化は、1960年初頭には完了し、既製服の量販の時代、イージーオーダーの売場に林立する量産マネキンの時代へと突入していったのです。

マネキン企業とアーチスト、デザイナーの関わり


左:1952年(昭和27年)の七彩工芸・マネキン新作展で発表された作品。マネキン制作:向井良吉、衣裳デザイン:桑沢洋子
右:1970年代中頃のスーパーリアルマネキン


彩ユニオンの和装マネキン


個性豊かなアデルマネキン

マネキン企業とアーチストとの関わりは、戦前の旧「島津マネキン」にその典型例を見ることが出来ますが、戦後においても密接な関係は続きました。「吉忠マネキン」の吉村勲、佐々木良三、東郷青児、「大和マネキン」の流政之、堀内正和、入江信四郎、「七彩工芸」の島津良蔵、向井良吉、村井次郎等、数えあげれば実に多彩な顔ぶれが、戦後間もなくマネキン業界と関わり合いを持ちました。

服飾界のデザイナーとマネキンの関わりもまた密接でした。著名なデザイナーの評価が、マネキンの売上げを左右しました。デザイナーはお気に入りのマネキンの衣裳をデザインし、マネキン新作展で発表しました。マネキン新作展は、ある意味で服飾デザイナーのコレクション発表の場でもありました。田中千代、藤川延子、桑沢洋子等デザイナー諸氏とは、特に深い関わりが見られます。

以後、アーチストは直接経営に関わったほか、嘱託として多くの人達が参加しました。アーチストが担い手となって成長した企業は、「七彩工芸」「大和マネキン」「吉忠マネキン」の京都三社の他に、特異な例として「ノバマネキン」があげられます。

「ノバマネキン」の創業者・高岡徳太郎は、1946年(昭和21年)に東郷青児とともに二科会を再建しました。そして当時の再建された二科会の画家や彫刻家の生活の安定を計るために、仲間数人で壊れたり汚れたりしたマネキンの修理を行っていました。そして「千歳工芸」というマネキン修理を請け負う会社を、彫刻家や画家達と設立しました。東郷青児、笠置秀男、浅野孟府(いずれも故人)と岡本太郎のほか、若い彫刻家や画家達が続々と集まり、専らマネキンの修理を行っていました。

しかし、もともと無から有を生み出す芸術行為を本業とする集団であることから、修理だけではつまらなくなり、新たにオリジナルマネキンを作ることになり、「千歳工芸」第一号マネキンを試作します。ところが、マネキンを作ることと、日頃制作している彫刻作品とはまったく別の物であることを認めざるを得ない結果となりました。つまり、彫刻家が考えるリアルな人体造型と、店頭に飾られ購買意欲を刺激するために作られるマネキンの抽象性とは、かなりのギャップのあることを知ったのでした。

こうした最初の失敗が教訓となり、マネキンを作る彫刻家、顔を描く画家、それに人形作家も加わって、本格的な生産に取り組みはじめ、自社のオリジナル商品を生み出せるようになりました。この流れを受けて、1954年(昭和29年)6月に業務開始したのが「ノバマネキン」です。

会社案内の「ノバマネキンのあゆみ」には、設立当時のノバマネキンを“華麗にして格調高きディスプレイマネキンを開発し、業界のユニークな存在となる”と紹介されています。日展会員で彫刻家の遠藤松吉にマネキン原型制作を依頼。設立の年の7月には岡本太郎デザインのオブジェを、日本橋高島屋のウインドーに納入しています。「ノバマネキン」といえば、目に浮かぶのが高島屋のキャラクター“ローズちゃん”です。第一号が納入されたのは1959年(昭和34年)6月のことです。

アーチストとの関わりの深い「七彩工芸」はFRP製マネキンが発表された1959年(昭和34年)に、東京と大阪で画家と彫刻家の創作による陶芸作品展「火の芸術」展を開催しました。向井良吉、末松正樹、木内克、林武、岡本太郎、毛利武士郎等10数名の作家が出品しています。その後「七彩工芸」は毛利を取締役に、行動美術の伊藤久三郎、走泥社の鈴木治、さらに末松正樹を嘱託に迎えます。

相次ぐマネキン企業の誕生 〜昭和30年代〜


イッセイ・ミヤケ/スペクタクル・ボディワークスの人体ボディ、1983年、マネキン・デザイン:毛利臣男、製作:七彩


イッセイ・ミヤケ「A・UN」展のマネキン(フォルム)、1988年、パリ装飾美術館。マネキン・デザイン:毛利臣男、製作:七彩

1950年代後半から60年代前半(昭和30年代)には、マネキン企業が相次いで誕生します。1956年(昭和31年)、「パールマネキン」が岐阜に創業し、1965年(昭和40年)に株式会社となります。1973年(昭和48年)に大阪へ進出。1976年(昭和51年)には本社社屋を建設します。

1957年(昭和32年)には、戦前から京都で一貫して和装マネキンに取り組んできた「彩光マネキン」が、洋装マネキンに着手し、社名を「彩美工芸」と改めます。その後、現在の「(株)彩ユニオン」となります。

(注:彩ユニオンには、現社長の沢井サクと創業者の中村菅一郎が1954年(昭和29年)に、東京の銀座松屋から買い取った「生き人形」の頭部60余点が、現在も保管されています。この頭部は、三代目・安本亀八が1925年(大正14年)に、松屋の開店記念ディスプレイのために特別に制作したもので、極めて貴重なコレクションといえます。)

1961年(昭和36年)には、同じ京都の「松橋マネキン店」が株式会社に法人改組し、松橋二郎(現・会長)が代表取締役に就任し、洋装マネキンの制作を再開。1977年(昭和52年)に現在の「(株)マツハシ」に社名変更します。

「(株)ローザ工芸」は、1962年(昭和37年)4月に彫刻家・建畠覚造のアトリエを借用してマネキンの原型制作をスタートさせた後、五月に現社長・須賀忠治を中心に、彫刻家の建畠、画家の高井寛二を取締役に迎えて、川口市(埼玉県)に創立します。創立とほぼ同時に藤田正三工房よりマネキン第一号を納品し、製造販売活動を開始しました。

「ローザ工芸」は、翌1963年(昭和38年)には三愛ドリームセンターに可動式マネキンを独占納品したり、和光の企画「日本第一線婦人服デザイナー競作展」のウインドー展開のためのマネキンを納品展示し、店内にも可動式の特注マネキンを納品するなど、ユニークな活動を展開しました。

1965年(昭和40)には第一回新作発表展示会を開催し、“業界では最も遅い発足であったが、来場者の評価も高く、営業展開に明るい希望を持つことができた”と「ローザ30年の歩み」は記しています。その後は1980年代初めに「週刊ダイヤモンド」誌上の「特別調査・日本列島伸びる中堅企業120社」に選ばれて紹介されるなど、着実な伸長を遂げ、1990年(平成2年)に社名を「(株)ローザ」と改めました。

1962年(昭和37年)11月、「潟jシモト」が名古屋に創業します。「ニシモト」は発足当初から「大洋工芸」と東海地区の代理店契約を締結。1972年(昭和47年)に春日井市(愛知県)に工場を稼働させ、同年に本社屋を同じ春日井市に竣工します。「大洋工芸」との代理店契約は翌年に終わりますが、同じ年に西独バルセルメス社と販売契約を結ぶなど、海外との提携にいち早く取り組みます。最近では1993年(平成5年)に米国パティーナV社と販売契約を締結したことが話題を呼んでいます。

マネキン冬の時代の到来と新時代のマネキン


1989年、姫路市立美術館で開催された「ケンゾー展」のマネキン(七彩・作)


コム・デ・ギャルソン/トリコのマネキン、1991年、製作:七彩

1960年代に入って、百貨店の婦人服売場はイージーオーダー一色となり、マネキンの全盛時代を迎えます。この時代のマネキンは、顔を中心とした静的で優雅なイメージの、女性らしさを表現したファイバー時代のマネキンと異なり、立体的で肉感的な女性美を追求したダルナマネキンや、当時の映画女優の影響もあってファニーフェースでセクシーなボディイメージが特徴でした。

しかし1960年代も後半になると、既製服の立体裁断による既製服のサイズ化の流れが、次第に顕著となります。1966年(昭和41年)に「七彩工芸」は帝人(株)の依頼により、立体裁断用ボディ「フェアレディ」を開発します。売場はマネキンを林立させる時代から、ハンガーラックを中心とした大量販売を意図した什器構成へと、次第に変化していきます。

ウエストが50センチ前後のイージーオーダー対応のマネキンは時代遅れとされ、サイズ化された既製服が着こなせるマネキンの登場が待たれるようになります。マネキン業界はこうした時代の大きな変化に直面して、次第にマネキンから什器へと軌道修正を計ります。

1970年代に入ると、経済的要因も作用して、マネキンにとって厳しい冬の時代到来となります。実際にマネキンを売場から一掃する百貨店が出現するなど、もはやマネキンで服を販売する時代は終わったとも囁かれました。マネキン業界はマネキンの開発を極力控え、什器へと切替えを計りました。

ある意味でマネキン受難の時代のまっただ中といえる1968年(昭和43年)7月、当組合の前身である「日本マネキンディスプレイ協会(任意団体)」が京都に発足し、「大和マネキン」取締役(当時)の水本澄が初代幹事長に就任しました。そして1972年(昭和47年)に商工組合として通産省の認定を受け、理事長に「七彩工芸」の社長(当時)向井良吉が就任しました。

このようにマネキン業界の結集が実現した中で、1970年(昭和45年)の11月23日、我が国マネキン企業の創始者であり、業界に多大の功績を残した島津良蔵が永眠されました。享年69歳でした。まさにこの死は時代の大きな変わり目を象徴する出来事でした。

こうした状況下の1970年代前半のマネキンに関する話題は、1971年(昭和46年)「七彩工芸」の門井嘉衛によって開発された、生体のまま型取りする“FCR技法”によるスーパーリアルマネキン」の登場であり、いま一つは1973年(昭和48年)に「吉忠マネキン」が契約し翌年に発表したロンドンの「アデルマネキン」の登場でした。前者は日本人、後者はヨーロッパ人のリアリティを表現し、冷えきったマネキン界と商空間に、ファッショナブルでセンセーショナルな新風を送りました。

そして1970年代半ば以降、ビジュアルマーチャンダイジング(VMD)のノウハウがアメリカから導入され、エキサイティングでドラマティックな売場の創造によって、百貨店の再生が計られました。こうした状況の下で、マネキンはマーチャンダイジング(MD)を視覚的に訴求するビジュアルプレゼンテーション(VP)に不可欠な構成要素と位置付けられ、各社とも多様なキャラクターのオリジナルマネキンを発表するとともに、海外のマネキンブランドの導入と、海外への輸出が活発化しました。

この流れは、1992年(平成4年)に「吉忠マネキン」がイギリスのルーステン・ポプキンスグループ(アデル社)を買収したことへと発展しました。

イージーオーダー時代のように大量のマネキンが売場に林立することはなくなりましたが、その代わりマネキンの役割は明確となり、ファッションテーマをトータルに演出することが求められるようになりました。マネキンはより人間に近いリアリティを有し、ソフトウィグが登場したのもその顕著な現れでした。

1980年代になると、各社とも業績に占めるマネキンの割合は減少し、商業施設全般との関わり合いが主流となります。

1971年(昭和46年)、「大和製作所」は社名を現在の「ヤマトマネキン」と改めました。それから10年後の1981年(昭和56年)、「七彩工芸」は社名を「七彩」と変更します。

オーダー指向を強めた1980年代 〜ファッションデザイナーとの共同作業〜


1993年、スパイラル(東京・南青山)で行われた「マネキンの歴史展」(七彩・主催)

1983年(昭和58年)5月、東京を皮切りにアメリカとイギリスで開催された「イッセイ・ミヤケ/スペクタクルボディワークス」は、インスタレーション(装置)の構成要素にマネキン(人体モデル)を位置づけるとともに、サウンドや映像等のメディアを複合化させることによって、まったく新しい空間を創造しました。マネキン自体もシリコンゴムと半透明プラスティックという新しい素材の採用と、肉体の美しさを表現した造形によって、既成概念を変えるイメージを表現しました。

この展覧会は、当時マネキンに否定的であったファッションデザイナーやクリエイターに、強烈な刺激を与えました。

「七彩」は1970年代後半から今日まで、三宅一生を中心としたグループの数多くのデザイナーと、マネキン開発を軸に取り組みを継続してきました。とりわけ毛利臣男のアートディレクションとマネキンデザインは、独創的な発想により、空間に融合するマネキンの新たな可能性を示唆するものでした。

この流れは他のデザイナーやクリエイターにも少なからず影響を与え、1980年代半ばから今日まで、数多くの人々との出会いによって、マネキンのイメージと可能性を広げてきました。

他の例としては、日本人男女のモデルをマネキン化した「ヨーガンレール」や、1980年代後半まではマネキンと関わりをもっていなかった「コム・デ・ギャルソン」も、今日では全世界のショップで独自にオーダーしたオリジナルマネキンを使用していること、そのほか「七彩」に限らず、 マネキン企業とデザイナーとの取り組みの輪は広がっています。最近の例では「トーマネ」が関わった「ケンゾー展」や「シャネルブティック」のマネキン開発、「ローザ」とファッションデザイナー前田修との共同製作などに、その流れを見ることが出来ます。

おわりに(マネキンのこれから)

「島津マネキン」が誕生して以来70年の歳月が流れました。時代とともに生まれ、時代とともに変化するマネキンは、今後どのような運命をたどるのでしようか。

テクノロジーや情報化が高度に進化した今日でも、すべて人間の思いと手から生まれる「ひとがた」にすぎない偶像としてのマネキン。人間が自分の幻影である偶像を求める心理は、今後どのように変化するのでしょうか。この答えは、時代の進行を待たなければなりません。

しかし、これまでの歴史は、少なくとも人為的に消減させることを認めなかったことを、事実で証明しています。戦争とか経済的要因による消滅や停滞を退けてきたという事実は、この短い歴史の中から学び取ることが出来ます。

今また長引く不況の中で、マネキンは受難の真っただ中にあります。こうした時期に日本マネキンディスプレイ商工組合の25周年を迎え、業界の原点であるマネキンを見直す記念誌が刊行され、もう一度マネキンに思いを馳せてみることの意義は、決して小さくないものと思われます。不十分ながら、この「歴史物語」がそのための助けになれば幸いです。