マネキンの全て

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マネキンのすべて

マネキントレンド史

技術先進国、経済大国として国際舞台に押し出された日本。消費構造は「量から質」そして個性化を浮き彫りにした変革が深耕。卜ータルな生活場面に文化を、個性を求めて多価値・多様化が消費者レベルで定着。マネキンは、新しい役割と演出が与えられて新路線へ。多様な素材、バラエティに富んだ表現が定着した。

1980年代

成熟社会の中で深耕する多価値・多様化
マネキンも多様な素材、多彩な表現が定着

ホロニックに変革する社会とファッション


ライフスタイルを描写するリアルなスポーツ・マネキンが、店頭を飾る。

第二次オイルショックによる景気の低迷を脱し、経済大国、技術先進国として、世界の視線が集中する中で迎えた1980年代。欧米からの"ウサギ小屋"の指摘に「一億総中流」の幻想は消え、将来に対する不安材料を潜在させながらも超高度工業社会をヒタ走り、後半に入っては円高メリット、土地や株の資産効果の増大、そして内需拡大を反映して"バブル景気"に突入。豊かさを享受した。

また1981年には女性の就業率が50%を越え、終身労働の女性も急増。可処分所得の豊かなDINKS族、独身貴族をクローズアップ。女性の意識変化は、男性の変化をも促進して多彩な生き方を定着させた。「働き過ぎ日本」の指摘に、企業推進の文化活動も急増。健康・快適指向を背景にスポーツやレジャーが積極的にライフスタイルに導入された。

ファッションをはじめとした消費構造は、「量から質」へと大きく変革。同時に個性化時代へと突入。かつてマイナーであった日本人デザイナーの存在にスポットが当てられ、個性的ブランドを加え、いわゆる"デザイナーズ&キャラクターズ"ブーム。やがて高級・高額インポート・ブランド時代へと引き継がれた。

しかし、一方では成熟市場を反映して、トータルな生活場面に文化や個性が求められ「衣」「食」「住」に加えて「遊」「休」「知」と、あらゆる分野におけるファッション化現象を生み出し、異業種との交流、業際を超えた産業開発などが活発化。多様化の浸透は、分衆・少衆化、ミーイズムと限りなく細分化され、ファッションは"モノ"から"コト"、"記号化"の時代へと質的変化を遂げた。

活路、存在価値を新たにしたマネキン

ホロニックに変革する社会のなかでマネキンは、価値観を新たにして「冬の時代」を脱し、大きくは四つの方向で変化、変貌して活路も新たにした。

一つ目の要因は、国際化。


VP、VMDの拡大・深耕で、ストーリー性が求められるディスプレイ。

1974年に"アデル"が導入されて以来、活発化していた海外企業との提携は、その後の円高の影響を受けて、さらに促進された。一方、円高は、アジア地区を中心に、生産基地の海外進出という側面も生み出し、極東地区の経済力の向上が、日本からの輸出も増大させた。輸出・入を含めた国際交流の活発化は、また表現方法にも国籍を問わないグローバルな感覚が求められた。

二つ目の要因は、VP、VMDの波及、深耕、高度化で多彩なキャラクターのマネキン需要の高まり。1970年代末に、消費構造の変革で導入された生活提案型のビジュアル展開が全国に波及する一方で、商品を供給する側でも企画段階からのビジュアル・マーチャンダイジング(VMD)が導入されて、個性化、細分化が深耕。積極的なブランド戦略が市場に導入され、各々のブランドのキャラクターを表現するマネキンが要求された。


"街の劇場化"の中で、ディスコの雰因気でディスプレイされたマネキン達。

一方、VP、VMD展開は、シーンの中で人間に代わって、シナジー効果を高め、ファッション・ステートメントを訴求するものとしてマネキンが位置付けられて、必要不可欠の存在になったことだ。マネキンは、かつての単に洋服を着て見せるだけの役割から脱して、活躍の場面を広げ、価値観も新たに、"街の劇場化"へと高度化する中で、より多彩な表現になった。

三つ目の要因は、異業種交流のなかで開拓されたもの。マネキンの復権、発想の拡大・深耕と共に、業界内だけではなく業界外にも多大な影響をもたらした。


マネキン創作に新風を吹き込んだ「イッセイミヤケ・スペクタル・ボディワークス・ロンドン展・サンフランシスコ展」の会場風景/写真提供 株式会社三宅デザイン事務所

1970年代後半に入って、人気を高めてきた日本人デザイナーの長いバーハンガーと平面的なディスプレイの演出を基調とした箱形ショップの提案も、1980年代初期には量盛期を迎え、逆に類型化するという皮肉な現象を生んだ。このような中で先駆的デザイナーによる新しい提案が模索された。

その契機となったのがデザイナー三宅一生とアートディレクター毛利臣男、そして七彩との共同作業によって展開された「イッセイミヤケ・ビデオパフォーマンス」。洋服とマネキンの一体化、さらには空間と融合したオブジェとして表現されたもの。続いて翌1983年に開催された「イッセイミヤケ・スペクタル・ボディワークス」が、その表現方法を決定的にして、かつてのマネキン製作に新たな発想をもたらした。


右:リサ・ライオンをイメージした85体のマネキンが取り付けられた"つくば博"の大観覧車。
左:歴史展や衣装展でも活躍。1985年に開催された「ポール・ポワレ衣装展」の会場風景/写真提供 (財)ファッション振興財団

これをキッカケとして、ファッション・デザイナーが、服をデザインするだけでなく、それを着るマネキンまで含めてクリエイトする傾向が顕著になり、素材的にも多様なものが起用されていく。イッセイのシリコンと半透明のプラスチック、コム・デ・ギャルソンのこうぞ製紙と半透明プラスチックによるもの、ケンゾーのステンレスの線材を溶接したもの等、空間のオブシェとしてアート化したものも含めて、多様な素材の起用など、業界にも多いなる刺激を与えた。


右:ハイテク社会を映して、多様なメタリック表現が高い人気に。
左:一方で抽象マネキンも、様々な表現で登場。

四つ目の要因は、企業推進を中心とした文化活動のなかで、人間に代わって空間に位置付けられたマネキン。ヤマトマネキンが製作した「'85つくば科学博覧会」で大観覧車に取り付けられた女性ボディビルダー、リサ・ライオンをモデルにしたものが代表例の一つ。その他、企業推進、地方の時代、故郷起こし、各地に開設された美術館や博物館、民族資料館などに設置されたもの、「歴史展」「衣装展」などの展覧会の数々……マネキンの活躍場面は視野を拡大した。

空間のオブシェとしてアートに近い抽象的なものから解剖学的要素を取り入れたスーパー・リアルな表現のものまで、多彩なものが登場した1980年代のマネキン。素材的にも、金属の板やワイヤー、メッシュなどメタリックなもの、木や砂、石など自然素材にイメーシを求めたもの、また透明プラスチック、金属メッキ等、多種多様な素材が起用されるなど、活路、空間を広げ、発想も新たにしてバラエティに富んだ市場を形成した。