マネキンの全て

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マネキンのすべて

都市の装置としてのマネキン

八鳥治久
釜a光・常務取締役
日本ビジュアルマーチャンダイジング協会理事長

都市の祝祭性を生み出す装置ショーウィンドー

ショーウィンドーは都市化の産物である。都市化の進行とともに姿をあらわしたものだからだ。その都市化が、世界で最も早かったのはロンドンだろう。ショーウィンドーの展開もまたこの都市が最も早がったようだ。今でも、この地のディスプレイに定評があるのはそのためかもしれない。

この都市化ということ、これは文字どうり都(みやこ)化することであり、市(いち)化することである。といっても、これはなにも文字の説明をしているのではない。都化するとは、一定の場所に人が集まることなのだ。要するに人口の拡大である。このことは、その場が政治のセンターになることにつながる。
そして、さまざまな儀式の場になることでもある。それは祝祭性に結びつくことだ。

もうひとつの市化するということ、これはご存知のように商いの場になることだが、この市という言葉にはかくれた意味がある。それは神に仕える女性という意味だ。そこで市丸とか市奴といった芸者の源氏名に使われるのだ。このことは、市の場が祝祭の場でもあることを示している。
つまり、市化もまた祝祭性に結びつくわけだ。

このように、都市化とは、ある場所が、祝祭性をもったものになるということでもある。そして、その祝祭性によって都市は周囲に君臨し、その祝祭性によって周囲の人びとをまきこむのだ。

とすると、都市にあるもの、とくに市にあるものは、祝祭性へのかかわりが重要になってくる。ショーウィンドーは、市の顔といってもいいものだ。ということは、それは祝祭性を生み出すものでなければならないということである。つまり、ショーウィンドーとは、都市の祝祭性を生み出す装置なのだ。

では、祝祭とは、そして祝祭性とは、いったいどんなことなのだろう。

祝祭が目的としているのは、人の欲望を昇華させることである。そして、人の共同意識を涵養することだ。とすると、祝祭性、つまり祝祭をあらわすものは、人の欲望の昇華に結びつくものでなければならないということになる。また、人の共同意識に結びつくものでなければならないということになる。

そこで浮かびあがってくるものが“華やかさ”であり“驚き”であり、“共感”である。

見る人の喜びを求めるもてなしのディスプレイ

銀座和光のショーウィンドーは、銀座四丁目の交差点にある。そこは、銀座という市の中心である。そこにあるものは当然のことながら銀座の顔にならなければならない。そして、祝祭性を盛り上げなければならない。それが義務なのだ。

その要求に応えて、和光は、華やかさと驚きと共感とを求めるディスプレイを繰り広げる。その期間は、現在年9回、平均40日である。

このディスプレイは、また、 「もてなしのディスプレイ」と言いかえることができる。なぜなら、華やかさと驚きと共感とを見せるとは、見る人の喜びを求めることでもあるからだ。そして、それは人をもてなすことでもあるからだ。

このもてなしのディスプレイの主役は、どうしてもマネキンが多くなる。それは、人間が最も興味をもつのは人間だからだ。そこで“生き人形”の出番が多くなるというわけだ。

かつて、ショーウィンドーの主役は商品だった。物が欲望を昇華させる対象だったからだ。もちろん、今でもその傾向はあるだろう。しかし、その役割は後退しつつある。人びとの関心が“物を持つこと”から“生きること”へと移り変わりつつあるからだ。そこで“人と事”“人と時”“人と物”“人と場”のかかわりがクローズ・アップされてくる。これはマネキンを使った物語の要求につながる。そして、マネキンが演じる劇の要求につながる。

誘惑の劇


[1]

和光のショーウィンドーは、この要求に応えて、さまざまな劇を繰り広げてきた。そのひとつは誘惑の劇である。人の欲望に誘いをかける劇だ。例えば、[1]マネキンが髪を結っている。大げさな白鳥の形をしている髪形だ。ショーウィンドーのなかのものは、このように大げさなものの方がいい。それが人目を誘うからだ。


[2]

また、[2]マネキンが衣裳を着けている。紐だけでつくられた衣裳だ。そのあぶなげなところが誘惑の仕掛けになっている。ショーウィンドーのなかのものは、このように意外なものの方がいい。それが驚きを誘うからだ。

喜びの劇


[3]

マネキンによる劇、その二番めは喜びの劇である。例えば、[3]マネキンのダンサーが手を振っている。あるいは、[4]マネキンの道化師が軽業を見せている。[5]レオタードに身をつつんだマネキンたちが人文字をつくっている。1986の年号をあらわす新年のディスプレイだ。[6]祭りの儀式だって顔を出している。津和野の弥生神社の鷺舞が、鶴に姿を変えての登場だ。


[4]


[5]


[6]

このひとつひとつは華やかな街角のショーといっていいだろう。見る人を喜びに誘う楽しいショーだ。残念ながら拍手は聞こえてこないが、街を行く人は、きっと心のなかで手をたたいているにちがいない。

驚きの劇


[7]

マネキンによる三つめの劇は驚きの劇である。普段、目にすることができないものを登場させること。そのひとつは盗賊劇。[7]例えば天井裏にへばり付いて、宝石をねらっているマネキンがいる。[8]本棚に仕掛けられている秘密の扉をこじ開けて、忍び込もうとしているマネキンがいる。[9]魔法のカーペッに乗って登場のマネキンがいる。その手にはジュエリーが握られている。

いずれもおなじみのストーリーだが、ガラス一枚へだてた目の前で展開されているものだけに、その面白さは格別だ。ショーウィンドーならではのものといっていいだろう。


[9]


[8]

異常な身体の人間たちもまた普段目にできないもの、そこで見世物の世界に引き出される。また、祝祭の場でも幅を利かすことになる。怖いもの見たさは人の常、人を引き込むには格好の材料だ。[10]人魚たち、そして[11]牧神たち、ともに異形である。マネキンは、その身体をけずって異形たちの材料になっている。


[10]


[11]

挑発の劇


[12]

マネキンによる劇、その四つめは挑発の劇である。例えば[12]仮面をつけているマネキンがいる。これはカーニバルをテーマにした劇なのだ。[13]背中を向けているマネキンたちがいる。その向こうはパーティの場である。そして、[14]薄い布の向こうにマネキンたちがいる。これは、日が暮れて、照明が輝きを増すとともに姿をあらわすという仕掛けになっている。この顔を隠す、背を向ける、姿を隠すということ、これは媚態なのだ。挑発の仕草なのだ。


[13]


[14]


[15]

それから、[15]ボディにペインティングをしているマネキンたちがいる。その姿は意外に健康的だが、これもまた挑発の仕掛けといっていいだろう。マネキンたちは、人間たちと同じように挑発をしているのだ。欲望をかき立てる劇を演じているのだ。

このように、マネキンたちは、さまざまに姿を変えて、多彩な劇を演じている。決して商品を見せるための展示器具になっているのではない。生まれてきた時の呼び名の通り「生き人形」としての役割を果たしているのだ。

これからも、ぜひ、生きている人形でいてほしい。生き生きとしていてほしい。肢体を硬くしないでいてほしい。そうでなくては人の欲望への働きかけができなくなるからだ。劇の主役を演じることができなくなるからだ。そして、ショーウィンドーが、祝祭性を生み出すことができなくなるからだ。