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1968年発表のリアルマネキンの顔(写真提供:七彩)
1980年代初め、東京銀座のデパートの入口付近を通りかかった時、ただならぬ人だかりに近づいてみると、木の枝に腰を掛けて歌を唄っている「女の子」に眼が止まった。その「女の子」は、身長は一メートルくらいだが、一瞬実際の人間だと感じてしまったほどリアルだった。形状はもとより軟質の皮膚感が生々しく、眼の瞬き、唇の動きも微妙で、実に愛らしい表情を醸し出しており、声の可愛さに至っては絶妙だった。それは見れば見るほどリアルで、人工物であることに疑いを感じても仕方がないほどだった。しばらくして、その「女の子」の背中に羽根が付いていることが分かり、ファンタジーの世界に存在する「妖精」であることに気付いた。それまで「妖精」はディズニーのアニメや絵でしか見ていなかったため、実在感に乏しかったが、現実に目の前に現われたその姿を見て、これが本当の「妖精」であって欲しいなどと、一瞬の夢み心地に浸りたくなった。この「歌を唄う妖精」は、サイボーグとロボットを融合した「サイボット」として水野俊一氏の手で作られたものだ。水野氏はその後「マリリン・モンロー」を制作するとともに、1980年代半ばには、映画「ゴジラ」のサイボットを制作している。
20年以上も前に遭遇したこの「妖精」が、なぜ人々の驚きと共感を呼び起こしたかを考えてみることは、昨今、人間の代わりを務めるサイボーグやロボットの開発熱が盛んなだけに意味あることだ。結論を言えば、水野氏が開発した「妖精」は、イメージを人々に伝達する手段として、感性表現と工学技術を融合させた、現実に存在しない、感性の投影が可能なイメージ上の「いきもの」だったからだ。一方の人間を再現しようとするサイボーグぱ、人の形態や振る舞い、能力を工学技術のみに依存して開発された、従来の機械が人間の形に置き換わったものだけに、工学的興味は高まるものの、人に近づけようとすればするほど、人の感性は僅かな差異を違和感として感じとってしまい、「いきもの」と感じるには無理が生じてしまう。その点では水野氏のマリリン・モンローについても同じことが言える。また、人間との関係性を深め、人間の能力を補完する目的で開発されているヒューマノイド(人間型ロボット)についても共通した問題が指摘できるが「人間機械」としての見た目の面白さに助けられることもある。
人が親和性を感じる「人工的いきもの」とは何か。それはハイテクを駆使して人間に近づけようとすることではなく、人間の感性やイマジネーションに依拠して創造されたものである。人は、そのものが完全であるより、どこか不完全であるものに親しみを感じるものだ。他者に委ねて生きなければならないいきもの、例えばあかちゃんは「かわいい」存在の代表だ。かわいさの本質は、見た目だけでなく、頼りなさであったり、屈託ない表情や、人なつっこい性質にも関係する。このように人と長く関係し合える「人工的いきもの」を、人間の感性やイマジネーションを駆使してデザインする。これこそ芸術系大学に相応しいロボット開発ではないか。
著者: 京都造形芸術大学 ものづくり総合研究センター 主任研究員 藤井秀雪
※この文章は京都造形芸術大学紀要「GENESIS」第9号に研究ノートとして発表したものの転載です。
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