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激動に次ぐ激変の中で、20世紀最後の10年がスタートした。地球環境、資源問題も含めて今世紀に培われてきた価値観の見直し、そして21世紀へ手渡さなければならない価値体系の模索の中で、地球規模で大きく揺れ動く。
マネキンの表現においても例外ではなく、二極化した価値観を内在させて21世紀への模索がはじまった。
身体文化見直し時代を背景にマネキン、復活の兆し
20世紀最後の10年は、国際的には'89年の中国の"天安門の悲劇"、欧州における"東西の壁の崩壊"に始まったといっても過言ではないだろう。湾岸戦争以降さらに激化する民族紛争、冷戦の終焉など、地球規模での統合と分散が相次いでいる。
国内的には、昭和から平成へと元号が変わり、湾岸戦争勃発を契機にバブルが崩壊。政治・金融スキャンダルが相次いで表面化。一方では、自然の威力を再認識させるかのような普賢岳の大噴火、阪神大震災などの災害、宗教に名を借りた前代未聞の"サリン事件"、また、異常なまでの"ドル安・円高"など。
まさに20世紀の物質優先社会の歪みを、各国の国情での歪みを露呈するかのような世紀末的な現象が噴出。重い雲におおわれた不透明な時代を迎えている。
バブル崩壊後の消費市場は、等身大の生活、堅実路線を歩みはじめた消費者を前に、作る側・売る側は価格対応に追われた。手頃な価格であっても目の肥えた消費者は食指を動かさない。売れないから慎重になる作る側・売る側。楽しくないから買わない消費者。その悪循環がさらに市場を冷やす。
その悪循環を脱して、ファッションと価格のバランスを求めた商品開発が活発化し始めたものの、阪神大震災、サリン事件が相次いで盛り上がりを欠き、「ドル安・円高」もデメリットばかりが目立ち、1990年代半ばに入っても、低迷する市場から抜け出せない状況だ。
消費者達は1980年代に水面下で潜行してきた「心の時代」を前面に押し出し、"結果としてモノ"を求める。
特にファッション市場においては、その傾向を顕著にして、一方で個人のアイデンティティを厳しいまでに装いに託し、一方ではゲーム感覚で取捨選択して、手持ちのものに加えて新鮮さを演出する傾向が、1970年代のストリート・ファッションを超える現象をみせる。ファッション離れ、トレンド不在といわれる所以だ。
人々の夢と願望を託した21世紀は「自然と共生する、より人間的な時代」でありたいとするのは衆目の一致するところだ。
そんな時代に向けて、広義な意味での「エコロジー」を底流としたファッションは、トレンドの質そのものを変化させているといえる。
あらゆる意味において原点が問い直され、「より人間らしい生活」、豊かさの質を求めて"装う"ことの原点へと回帰。
1970年代、1960年代、1950年代、そして、1920年代〜1930年代、19世紀末さらにはルネッサンス期、古代・原始社会にまで歴史軸をさかのぼって"新・回顧時代"を印象づける。
そして1980年代後半から浮上している健康・快適志向の流れと合流して、「鍛えられたしなやかな肢体」をクローズアップさせ、結果としてボディ・ペインティングや、下着ルックなどのファッションを登場させている。
この宇宙体系において「心と物質」という異質の価値が見事に融合した作品が人間であると言うのは言い過ぎであろうか。しかし、その意味においても、いまスポットが当てられているような気がする。
その他、グローバル化とナショナリズム、男と女、ハイテクとハイタッチなど対極にある異質の価値観の共存・融合が様々なファッションを生み出している。 分析・再分化で発展してきた西洋科学の行き詰まりは、包み込むという東洋思想を取り込み、極東地区の経済力向上が拍車をかけて、東洋文化をクローズアップする。
また、人間の本質への追及は、男女の性差を超えたファッションを登場させ、一方に、過去にさかのぼった女らしさの表現を求め、一方では男性の装飾化を促進させる。プリミティブな表現が登場したと思うと、一転して洗練した貴族文化にスポットがあたるなど、対極の価値を揺れ動く。
ルネッサンス、さらにはギリシャ時代にまで立戻りながら、未来を描く1990年代。(彫刻の森美術館にて撮影)
人間の存在そのものが、その精神性を伴ってクローズアップされる傾向の中で、マネキンは、復活の兆しをみせている。
その主流は、スカルプチュア・ヘア、透明度を増し、繊細さと洗練度を加えた西洋風「動的」表現のものを基調にしながらも、新しく東洋風「静的」表現を加味したものを加えている。そして1950〜1960年代の銀幕のスターをはじめ、よりリアルに人間味を強調したものが一方にあれば、一方ではミニマル・アートに近い形で人間の存在感を訴求するものと、両方向への広がりをみせている。
また個人的キャラクターをモデルにしたものがあれば、ハイテク技術を駆使したものもある。日常レベルで定着しているハイテク技術を肯定しなければ未来はあり得ないという実情を踏まえた発想だ。
しかし、マネキンの存在を全く否定することで人間の存在感を強調したいという動きも、ひとつの側面として存在している。
21世紀に向かって、マネキンは「黄金期のような量的展開は期待出来ないけれど、質の高度化を追及しつつも、ひとつの文化として確実に生き残っていくであろう」というのが大方の見識とするところだ。
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