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彩色を得意とした異色の原型作家として草創期を走った
吉村勲(よしむら・いさお) | |
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1904年(明治37年) | 12月 京都市生まれ 関西美術院で学ぶ 島津マネキンで原型作家として活動 |
1946年(昭和21年) | 吉忠(株)マネキン部にてマネキン制作 |
1947年(昭和24年) | 二科展に出品 以後、二科会友、会員、理事へ |
1957年(昭和32年) | 吉忠マネキン(株)取締役 |
1963年(昭和38年) | 同社取締役・創作室長 |
1968年(昭和43年) | 同社監査役 |
1973年(昭和48年) | 同社技術顧問 |
1983年(昭和58年) | 二科展にて総理大臣賞 |
1984年(昭和59年) | 京都市文化功労者 |
現在 | 吉忠マネキン(株)技術顧問 二科会理事 京展審査員・京都市美術館評議員 |
右:第71回二科展1986グランターブル
左昭和22年、戦後(第二次世界大戦)初のマネキン原型。写真はその中の一体で粘土原型完成時のもの
吉村は、日本のマネキン業界の草創期から原型作家として仕事にたずさわり、現在も活動を続けている数少ない、貴重な存在の一人である。洋画家を志しながら、大正デモクラシーの自由な時代の息吹きの中で、マネキンの制作とどう関わっていったのか、その経歴は日本のマネキン小史のエピソードとして興味深いものがある。
吉村は京都市の生まれ。父親は陶芸家であった。幼少の頃から画才が目立ち、父は吉村を日本画家の道へ進ませようとして、京都美術学校への入学を勧めた。しかし本人は洋画を強く志望し、当時の京都では唯一西洋画を教えていた関西美術院に入った。
吉村はここで10歳代の後半から20歳代の後半まで10年間近くを、自由に創作活動をして過ごした。京都在住の文化人との交流も多く、そうした伸間から「築地小劇場を京都に呼ぼう」という声が高まり、実現させてチェーホフの翻訳劇等を上演させたこともあった。またヨーロッパの音楽家が来日すると、大金をはたいて必ず演奏会に駆けつけた。ハイフェッツ、クライスラー、コルトー等……吉村の頭の中には、当時の熱っぽい感情と印象深い思い出がいっぱい詰まっている。
マネキンとの出会いは12歳頃、当時清水に住んでいて寺町御池にあった歯医者に治療に通う途中に洋装店があり、そのウインドーにマネキンがあって、不思議な美しさに心打たれた。ところが何度も繰返し見ているうちに、マネキンの頬が少し凹んでいるのに気がついた。当時のマネキンはすべてフランスからの輸入品で蝋製。船で運ばれる途中のインド洋で蝋が融けたためと後に判明した。
そうした生活に、ある日とつぜん大きな転機がやってきた。関西美術の一室で、島津良蔵氏に「僕といっしょにマネキンをやりませんか」と声を掛けられたのだ。島津マネキンが輸入マネキンの修理に飽きたらず、オリジナルの制作に取りかかり、原型作家の育成に努めていた昭和7年のことであった。
以来、吉村は島津マネキンの自由な社風の中で、当時の若い作家たちと共にマネキン制作に励んだ。吉村の功績は改めて記すまでもないが、洋画家なので彩色の感覚にもすぐれ、吉村一人が原型と彩色の両方をやった。その間に何度も満州等に出掛けて、現地で壁面を描いたりもした。
戦後は吉忠マネキン(株)の取締役、創作室長として活躍したことは、まだ記憶に新しい。現在は技術顧問として、同社で後進の育成に目を光らせている。
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