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当商工組合初代理事長も歴任したマネキン業界の功労者
向井良吉(むかい・りょうきち) | |
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1918年(大正7年) | 京都生まれ |
1937年(昭和12年) | 在学中から島津マネキンでマネキン制作を始める |
1941年(昭和16年) | 東京美術学校(現・東京芸大)彫刻科塑造部卒業 |
1942年(昭和17年) | 徴兵により戦地へ |
1946年(昭和21年) | 5月に復員、7月に(有)七彩工芸を創業、社長に就任 |
1950年(昭和25年) | (株)七彩工芸設立、社長 |
1961年(昭和36年) | 第4回高村光太郎賞受賞 |
1972年(昭和47年) | JAMDA初代理事長 |
1977年(昭和52年) | (株)七彩工芸・会長 |
1978年(昭和53年) | (株)七彩工芸・相談役 |
1981年(昭和56年) | 武蔵野美術大学主任教授 |
1984年(昭和59年) | 第15回中原悌二郎賞受賞 |
1988年(昭和63年) | 武蔵野美術大学名誉教授 |
1989年(平成元年) | ヘンリー・ムーア大賞展 ほか各種コンクールの選考委員 神奈川県立近代美術館などで個展開催 |
向井良吉の代表作の1つ(昭和25年)
向井良吉は、原型作家としてマネキン創作活動に多くの功績を残したと同時に、戦後は島津良蔵氏とともに七彩工芸(現・七彩)を創業して初代社長となり、マネキン復興にも力を尽くした。また1972年(昭和47年)に発足した当商工組合の初代理事長に就任し、業界の発展に積極的に寄与した。
向井とマネキンとの出会いは、1937年(昭和12年)のことである。故郷の京都で療養生活をしていたところ、島津マネキンにいた友人から「遊んでいるなら来ないか」と誘われ、この道に入った。向井はマネキンを作りたくなった理由を、雑誌「夜想」31号のインタビュー記事の中で次のように語っている。「彫刻家は銅像を作ったり偉い人の彫像を作ったりという仕事ばかりだった。権威に関わった、何ら人間社会と具体的なつながりがない仕事で、生きがいがあるのかと。やはり街の中に並んでいる人形の方が人間との接触が間近だし、彫刻家としての生きがいがあるのではと思ったんです。」
島津マネキンでは荻島安二氏の指導を受けながら「私は本当にやりたいことをやらせてもらった。」「世の中に関わっていく使命感を感じていた。」そしてマネキンのオブジェに、次のような心持ちで対していた。「人体である以上は、いかに人間のリアリティを中に持っているかです。」「私なんか最初の頃はいかにヒューマンを生かすかということを考えていました。それは作る時の描写の表面的なものではなくて、もっと内面的なものです。何かもっと人間の奥底にあるものに触れるものを、いかに作るかということを考えていました。」
向井は出征に際して、「生還の暁にはマネキン創作活動を復活する」と島津良蔵氏との間に暗黙の約束を交わした。そして九死に一生を得て帰還。1946年(昭和21年)島津良蔵氏と共に七彩工芸を創業。1947年(昭和22年)に七彩工芸の第一号マネキンを発表した。以来、村井次郎氏とともに、ファイバー時代の個性豊かなマネキンづくりに取り組んでいった。
「瀝茎(れつけい)」1993年作
向井は、1978年(昭和53年)に社長を退任し、相談役となるまでの三十余年間、七彩の経営の中枢を担った。そして現在、彫刻家として日々活力に充ちた創作活動を続けている。その創造への意欲のほどを、「島津良蔵追悼文集」の言葉から引用しておこう。
「彫刻というものは、地の底に存在する“かたまり”のようなものです。地上の春夏秋冬、季節の移ろいにも関係なく、地の底にいてじっと地上の草木を支えているもの、そんなものが彫刻であり、彫刻家本来の体質だと思います。」
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