マネキンの全て

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マネキンのすべて

ビジュアルマーチャンダイジングの中のマネキン

宮崎倉治
凱&Aクリエイティブディレクター

大正〜昭和初期の銀座松屋のディスプレイ

マネキンは生(いき)人形で、名人・安本亀八の作。写真提供=葛竝タ松屋


[1]DM(絵ハガキ)より。人工着色。


[2]歌舞伎座のロビーを演出。


[3]東京劇場(築地)のロビーを演出。

銀座松屋の倉庫で、大正後期から昭和にかけての妖艶な生き人形(安本亀八・作)に出会った時の興奮が、鮮烈に甦ってくる。

七彩工芸のガレージで、ジャン・ピエル・ダルナ氏作のリアルマネキンと初めて対面した時のショックも、現在でも鮮明に憶えている。

マネキンは時代とともに変化し、その役割も大きく変わったが、それぞれの時点での世相を反映した、今日風にいえばVMD(ビジュアル・マーチャンダイジング)の主役であったのではなかろうか。

私の主な仕事場である松屋デパートが、銀座に進出したのは大正14年5月。
「今様風俗人形陳列会」を開催して大評判となった。以来、松屋オリジナル人形によるディスプレイが継続して行われ、多くの人達を魅了したと聞いている。(写真でおわかりのように和装が主体だが、当時は売上高の55%以上は呉服であった。)

戦後、洋装の普及とともにウィンドー演出も洋マネキンが多く使われるようになった。服地のピンワーク(オーダー)からイージーオーダーの全盛時代へ、そして既製服の時代へと変化していく。その間に下着も普及し、TPOによる着わけによるホームウェアの提案も行われた。こうした時代の推移を、ディスプレイの中でマネキン達は明確に語りかけているのだ。

昭和30年代からは、スクリーン・ファッションの流行とともに、ソフィア・ローレン、ブリジット・バルドーといった、当時の人気映画スター達(ヨーロッパ)のマネキンが登場した。昭和40年代のミニスカート流行とともに人気となったのは、ミニの女王といわれたファッションモデル・ツイギーの人形であった。その後の昭和50年代には、日本のDC(デザイナー&キャラクター)ファッションが世界のトレンドをリードして、日本的美女のモデル山口小夜子の人形が、世界の街角のウィンドーを飾った。

その後もマネキンは時代とともに変貌を続け、現在は知的なライフスタイルを感じさせる人形が主役となり、いわゆる「もの言わぬセールスマン(ウーマン)」以上の彩りと華やかさと確かな説得力で、ウィンドーやステージで活躍している。

そして、やがて21世紀。どんな美女がVMD劇の主役となり、どんなポーズと表情で登場するのか、それをどう使いこなせるか・・・等々、マネキンへの期待と夢は尽きず、大きくふくらんでいく。

安本亀八作の生き人形


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女性モデルの多くは、当時の人気新橋芸者で、名妓を買切って部屋にこもり制作した。それぞれに名前が付いていた。頭髪は人毛。その都度、着るものに合わせて結髪した。男性モデルは、歌舞伎俳優が多かった。(写真[4][5][6])

昭和30年代のウィンドーと店内ディスプレイ(銀座松屋)


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[7]ピンワークとオブジェ、活け花を使ったお正月のウィンドー・ディスプレイ

[8]1962年(昭和37年)春夏の流行色「High Way Color」をアピールしたウィンドー・ディスプレイ


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[9]東レとタイアップしたテレビウェア(ホームウェア)と婦人下着(オペロン)のキャンペーン店内ディスプレイ

[10]1964年(昭和39年)秋冬の「世界の銀座モード」発表会PRのショーウィンドー演出。バックの写真は当時の銀座。

いつまでも、人肌恋しい“スキンカラー”

1995年春のファッションカラー・キャンペーン(2〜3月)。ピンクからベージュ・オークルまで、人間の肌色をバリエーションで見せるファッションを、裸のマネキンを併用して演出した。

企画=鰹シ屋販売促進課
ディスプレイ=(株)M&A


ポスターに用いた写真。


ショーウィンドーのディスプレイ[A]


ショーウィンドーのディスプレイ[B]


ショーウィンドーのディスプレイ[C]