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近代社会に入ってクローズアップされるのは、マネキンだ。
人形として産声をあげながら、後に人間にその役割を委ね、再び衣装を訴求する人体像として造形され、商業社会、消費社会のなかで公共の場に佇む。
マネキンは、衣装の持つイメージを正確に、より明確に訴求する役割を運命としてきた。それだけに、誕生の経緯、その役割は、彫刻のように作家の主義主張を伝えるための造形と異なり、原型作家の思い入れを盛り込みながらも人体の理想像として造形され、工業製品的な冷たいまでのイメージを一面にもつ。
しかし、例えば裸体より薄いヴェールを纏った状況の方が、より強いエロティシズムを感じさせるのと似て、ドロドロした人間の情感を拒否したような工業的冷たさが、逆に強力な魅力となって、小説や映画に登場する。
初期のころは、例えばソフィア・ローレン主演の戦争によって行きちがってしまった男と女の物語「ひまわり」にみるように、生活の、さりげない風景にマネキンが登場してきた。
恋愛日記。
そして、フランソワ・トリフォーの「緑色の部屋」や「恋愛日記」では微妙なかたちで主人公に絡んで登場する。
「緑色の部屋」は、愛妻を亡くし、地方新聞で死亡記事を書くことを仕事に、死者との思い出の中だけに埋没しているような風変わりなトリフォー自身が演ずる男の物語。“緑色の部屋”で亡き妻との会話を生きがいにする彼は、亡き妻の人形の製作を依頼する。出来上がった人形は、形こそ妻にそっくりだが彼の思い出の中の妻ではない。ショックを受け、その人形は壊され、必死に妻への愛をつなぎとめようとする彼は、朽ちた礼拝堂を買い取り、改装して妻と愛する死者たちの祭壇にする。生きている人間以上に死んだ人間と強く情熱的なかかわりを持とうとする男の物語の中で人形が絡んでくる。
亡き妻の等身大の人形は彼の中の妻とは違う/フランソワ・トリフォー「緑色の部屋」より
「恋愛日記」(原題は“女たちを愛した男”)では、幼児期に母親の愛とスキンシップに満たされなかった男が、大人になってから、その代償を女から女に求め、人間として生まれ変わる努力をする中年男のお話。マネキンは風景として登場するが、まるで彼の追い掛ける女たちの一人のように登場する。
鬼才スタンリー・キューブリックの作品「時計じかけのオレンジ」では、暴力をふるったり、性行為を行おうとすると猛烈な吐き気をもよおすように改造された男というSF的なストーリーの中で、マネキンが登場する。
ウルトラミルクを飲ませるバーのマネキン/スタンリー・キューブリック「時計じかけのオレンジ」より
小説には、埋想的な女性像としてマネキンに恋をしてしまった男たちの物語もある。
マネキンがマネキンとして生まれて70年余り。これら映像にみるように、マネキンは単なる風景から、人間の心理と複雑に絡み合って登場するなどの変化をみせてきている。
いま、マネキンは、人間とのかかわりのなかで、単に衣装を魅力的に訴求する人体を模した造形物から、心理的にも、感覚的にも、もっと人間に近い存在になっているのかもしれない。いや、逆に、人間は自らの欲望のためには、昔から自分の肉体すら変形させてきた。命の存在すら希薄になりつつある昨今の社会では、人間がマネキンに近づきつつあるのかもしれない。
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